江戸川区最大の特徴は、区民の平均年齢が23区で一番若い41.4歳だということです。
これは特に子どもの多さが数字に反映されているためで、平成24年1月1日現在の東京都区市町村別年齢別人口データでは、0~14歳の人口比率が約17%を占めています。
国勢調査のデータでは、夫婦と子供世帯が28.3%、4人以上家族が19.0%、三世帯も3.35%といずれも23区でトップとなっています。
合計特殊出生率も1.45で23区平均1.16を大きく上回っており、江戸川区はまさに子育てファミリーが集まった区と言えます。
江戸川区と言えば、都内東部のウォーターフロント地区で下町を代表する区の1つですが、かつては大型台風の直撃や太平洋戦争による家屋焼失など甚大な被害を受けたこともあります。
海抜ゼロメートル地帯と揶揄され、津波や洪水によるリスクの高さが危惧されていますが、
そのデメリットをはね返す都心や千葉中心地へのアクセスの良さや自治体による手厚い子育て支援の数々、
手ごろな不動産価格を前面に打ち出したウォーターフロントエリアの住宅開発で、子育てがしやすい区として若い世代の大量流入に成功しました。
ディズニーランドへ行きやすい場所だということも子育てファミリーにとっての魅力の1つかもしれません。
支援制度は子育てファミリー向けだけではなく、熟年者対象の「家賃補助制度」や高齢者向けの配食サービスなどもあります。
区のスポーツセンターも温水プールを始めとしてその設備はとても充実しています。
やはり海抜ゼロメートルエリアが多く、天災時のリスクの高さからくるものです。
しかし家賃の安さで外国人も数多く住んでおり、国際色が豊かな一面もあります。
492haの広大な敷地を持つ葛西臨海公園には、緑があふれ砂浜が広がっており日本の渚百選にも選ばれました。
他にも動物園のある公園があり、区内の公園面積は756haで23区で1位となっています。
水族園で魚を見ることもできます。
区内を流れる江戸川や中川でものびのび遊ぶことができます。
荒川沿いには2003年に小松川千本桜が完成、新川千本桜も2013年に整備が完了し、花見スポットとして多くの区民が訪れる場所となりました。
若い世代の流入が活発な江戸川区ですが、元々は江戸時代から庶民の町として栄えた、長い歴史を持つエリアです。
伝統工芸品や特産物も江戸川区にはあります。
江戸切子は東京の下町だった江東区、江戸川区、墨田区で主に製造されている東京の伝統工芸の1つです。
硝子の表面に金磐や砥石を使って、色々な模様をカットする技法です。
18世紀始めごろから、鏡、メガネ、風鈴等が製造されるようになり、明治時代に入ってから欧州の技術を導入し近代化され、東京の地場産業になりました。
平成14年に東京都伝統工芸品に指定され、平成26年に経済産業省より国の伝統工芸品に指定されました。
江戸川区を代表するもう一つの産物は小松菜です。
江戸時代の将軍が江戸川区の小松川村に鷹狩りに訪れ、小松菜が入ったすまし汁をとても気に入り、その村の名前を取って名づけたのが始まりだといわれています。
現在も作付面積は江戸川区が1位です。
カルシウムや鉄分を多く含み、今では全国どこでも1年中食べることができる野菜になりました。
現在、江戸川区ではこの小松菜のブランド化に取り組んでおり、生食ができる新しいサラダ小松菜が誕生しています。
近年、人口増加が著しく若い世代に人気がある江戸川区ですが、治安面を不安視する声も少なからずあります。
子どもが多く、激安スーパーもあり、都心へのアクセスが便利だというメリットは、侵入窃盗や車上狙いなどの犯罪件数の多さにつながっています。
また江戸川区は区の北側に鉄道路線が通るだけで交通アクセスが悪く「陸の孤島」と呼ばれた時期が長く続きました。
1969年に東西線が開通、1983~1986年にかけて都営新宿線が開通してから、この問題は徐々に改善されつつあります。
現在都心と千葉方面を結ぶ東西ラインは充実していますが、区の南北をつなぐ鉄道路線はなく移動手段はバスのみとなっています。
バス路線を増やす措置がとられていますが、1世帯あたりの乗用車保有率は、23区内5位からもわかるように、車が生活の必需品であることがわかります。
杉並区は23区の西部にあります。
区の名前の由来は青梅街道沿いに植えられた杉並木ですが、現在その並木はありません。
杉並区は関東大震災後に多くの人が杉並に移り住んで以来、郊外の住宅地として発展してきました。
緑被率が23区3位という高さや人口密度が11位というデータを見れば、ゆとりがある住居が建ち並ぶ街だと想像することが出来ます。
杉並区は、震災後移住した人たちの中でも富裕層の人たちが、防災面を考えて都内の中心エリアに戻らずに、
この杉並に留まり広い邸宅を構えて優雅な暮らしを送ったことに端を発しています。 戦前から作家や画家といった文化人も多く住んでいました。
主婦の就業率が23位で専業主婦の比率が最も高い街、シングルマザー率が低い、離婚率が23位、
区内の高校卒業者の大学進学率が高いことからもわかるように、杉並区は東京の山の手を代表する住宅地の多いエリアです。
そして杉並区の魅力はそれだけに留まりません。
鉄道路線沿いには、安くて魅力的な店が建ち並び若者が多く住むエリアもあります。
有閑マダムだけではなく意外と若者も多い 杉並区の特徴
杉並区には、山の手代表エリアに匹敵する別の魅力があります。
専業主婦が多く、広い住まいでゆったりと優雅に暮らすのが杉並区の全てではありません。
杉並区に住む年齢別住民の割合で18~29歳の若者の割合は、男性が4位、女性2位、総合3位となっています。
このように数の多い若者は中央線沿線、吉祥寺、荻窪、西荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺エリアに多く住んでいます。
これらのエリアには個性的な雑貨店、古着屋、古本屋やジャズ喫茶、ライブハウスなどが多く建ち並んでいます。
そして大きな商店街があり生活がしやすく、また新宿へのアクセスも乗り換えなしで移動できる利便性の高さがあります。
昭和の高度成長期時代に生まれ育った人にとっては、広い敷地がある一戸建ての住まいで優雅に過ごすのが杉並のライフスタイルといえそうですが、
20代の若者にとっては、音楽や古き良き文化、雑貨店に囲まれて、毎日刺激を受けながら生活が楽しめるのが杉並の魅力です。
この2つの特徴が杉並区を住みたい人気エリアにした理由と言えます。
このような2つの風土が受け継がれ上手く融合し、独特の杉並文化が生まれ育っています。
現在、杉並区では音楽を通じた街づくりに積極的に取り組んでいます。
設備の整った公会堂や毎年行われる音楽祭など、杉並区は音楽が盛んな町としてそのステイタスを築いています。
そしてアニメを地場産業の1つととらえ、その発展支援にも努めています。
杉並区を代表する音楽活動の一つに荻窪音楽祭ああります。
21世紀の荻窪を考える会が主催となりクラッシック音楽の演奏会を通じて、荻窪のイメージ向上に貢献してきました。
音楽祭は、荻窪駅周辺の銀行や協会、音楽スタジオ、喫茶店などのさまざまな場所で期間限定で行われます。
イベントは、ボランティア方式で運営スタッフを募って開催されています。
無償報酬のスタッフ以外に、街のバリアフリー化や音楽祭開催のスポンサーを募って音楽祭の開催資金を調達します。
運営側と演奏者に分かれて区民が一体となって開催する荻窪音楽祭は町おこしの一つとして、平成28年度で28回目を迎える一大イベントに成長しました。
荻窪音楽祭以外に有名な音楽イベントには、阿佐ヶ谷ジャズストリートがあります。
1995年にスタートした当時は、小学校の体育館や企業のロビー、ライブハウスなどの13会場で行われましたが、現在は開催場所も60ヶ所以上と規模が拡大しました。
音楽の力で街を元気にするために始まったこのイベントも、地域住民によるボランティアで運営されています。
国際的にもクオリティの高い日本のアニメは、全国600ヶ所あると言われているアニメスタジオの内70以上がここ杉並区にあります。
アニメ産業関連会社が数多く杉並で創業した理由は自分の住まいを確保したから、交通が便利だったが多くなっています。
都心へのアクセスが便利だけでなく、緑あふれる静かで広い環境の中で制作に没頭しやすいのが杉並区です。
杉並区は、全国でも初めてアニメを区の地場産業と位置づけてその発展を支援しています。
2014年3月、鉄道路線の高架下に阿佐ヶ谷アニメストリートというアニメ関連のショップが集まった施設を開設しました。
また日本のアニメの歴史を紹介するアニメーションミュージアムもオープンし、展示だけでなくワークショップ開催やアニメの上映会など多彩なプログラムを提供しています。
またアニメウォークと称したまち歩きイベントもあります。
このイベントはアニメを造る側と見る側が相互に交流できる場として、アニメ産業の発展をサポートしています。
練馬区は、1947年8月、22区制だった頃の板橋区から分離独立して発足しました。
23区内で第5位の面積と第2位の人口を有する練馬区は東京の西北部にあり、23区内でも最も標高が高い場所にあります。
現在も農園が数多くあることから、「みどり豊かな区」のイメージを描く人が多いのですが、農地ばかりでなく公園なども多い区です。
緑の多い練馬では、農業が主要産業の1つです。
2013年1月現在の農地面積は23区中1位の240ha、この広さは23区全体をあわせた607haの4割近くになります。
農家の数は372戸でこれも1位ですが、経営耕地面積は0.3ha以下の農家が33%、農業収入額も0~49万円までという農家が約4割、
500万円未満が約9割というデータを見れば、大規模な農業を行っている人は少ないことがわかります。
そして1975年に農地面積が746ha、農家数が1342戸あったことを考えれば、農業は衰退していることは明らかです。
農業の他に練馬の知名度を上げたものには、アニメがあります。
この練馬には、90社以上のアニメ関連企業や大学の芸術学部、音楽大学もあります。
都心へのアクセスが便利、緑豊かな環境、家賃が安いことなどが、
漫画家を志す人たちの住まいさがしの条件に当てはまり、日本を代表する漫画家が次々と誕生しました。
農業はその地の特産物がブランドとなることが多いのですが、かつて練馬にも練馬を代表する野菜大根がありました。
練馬大根は、江戸時代より生産が盛んに行われており、明治時代に入り、
日清戦争や日露戦争によってその需要が高まり国内外にその名前が知られるようになりました。
大正時代に入ると首都東京へ人口が集中するようになります。
この頃から、練馬エリアが都心を消費地とした農産物の供給地となり、年々その役割を高めていくことになりました。
大根の生産も、この頃盛んに行われています。
鉄道の開通で流通が活発化したことで、練馬の農業は拡張期を迎えました。
練馬大根の最盛期は明治末期から昭和初期にかけての約25年間と考えられています。
昭和に入り戦争が終結すると、それまでたくあんの大口納入先だった軍の解体に伴い、大根の生産は減少し始めます。
大根の収穫は重労働だったこともあり、農家は大根からキャベツへと生産の主体を移行していきました。
現在、練馬では大根はほとんど生産されていません。
農地面積は昭和50年の745.6haから減少し、平成24年度現在では、3分の1以下の239.8haになりました。
練馬区内の農家戸数・農業従事者は昭和50年1,342戸、7,232名から、平成24年には498戸、1,075名に減っています。
現在の練馬の農業産物を面積で比較しますとキャベツを含む野菜類が15,776 ha、カキ、ブルーベリー、
ブドウなどの果樹類が3,191 ha、その他の植物が3,549 haとなっています。
平成23年度の東京都区別の土地利用面積資料によれば、練馬区の農用地利用率は区全体の面積の5.1%で第1位となっています。
23区内で最も農業が盛んに行われているとはいえども、全体としてその規模は縮小しています。
農産物の出荷量や作付面積は減少しましたが、練馬区ではこれまで培った農業のノウハウや今ある人材を活かし、観光資源として農業を活かす試みが行われています。
大都会東京に近い利便性を活かし、現在練馬区内には約30ヶ所のブルーベリー観光農園があります。
農の観光化を行い他の地域から多くの客を呼び込むことは、練馬が生き残る手段の1つとして注目されています。
また小学校の総合学習の一環として、区内の田んぼや果樹園を小学校に積極的に開放して、
次世代に向けて農業を積極的にアピールすることも行っています。
田植え体験やカキやキーウイの樹木の選定、授粉、収穫に至るまでを体験してもらい、
子供達に農業への関心を高めてもらう活動や、小中学校の給食で出た野菜くずや食べ残しなどを肥料へリサイクルする事業が行われています。
日本のアニメーションはその技術やソフトの両面で海外から高い評価を受けるようになりました。
練馬区は、アニメ・イチバンのまちとしてアニメ発展の歴史に深く関わってきました。
区内にあったアニメ製作所が国内初のアニメーションを制作したのを皮切りに、
1963年のアニメのテレビ放映開始が始まりました。
当時の漫画作家や後に有名になった漫画家たちは、その大半が練馬区で制作活動を行っています。 現在も90社以上の関連会社が練馬に集結しています。
練馬区では区が主体となり、アニメ産業を戦略的に強化する方針を打ち出し、
多数のアニメ関連産業を誘致して区内産業全体の活性化を図る活動を行っています。
国勢調査による2000~2005年の中央区の人口増減率は135.7%、2005~2010年では124.8%。
両データとも全国第1位の人口増加率です。
これだけをみれば中央区は、人がどんどん増えて街全体が活気にあふれている様子が想像できます。
加えて2020年のオリンピックでは晴海に選手村が建設され、その跡地には約6000個の住宅が整備される予定です。
江戸時代から現在まで日本の文化・商業・情報の中心地として発展してきた中央区は、今後も順調に人が増えて日本最大のメガシティの1つとして君臨し続けそうです。
全てが順調に見える中央区ですが、ここに至るまでには数々の紆余曲折がありました。
現在増加に転じた人口は、1960から1980年の20年でその数を16万1千人から8万3千人まで減らしました。
その後失った人を取り戻すために、区主導で住宅建設を推進する数々の政策を導入した結果、1996年より人口が増加に転じ2006年には人口10万人にまで回復しました。
区内定住者の増加には成功したものの、中央区内ではその人たちの生活を支えるスーパーなどの商業施設や子育て世帯に望まれる広い公園などが不足しています。
生活に便利な住みよい街を目指した地域の整備が今後の課題と言えます。
中央区だけでなく千代田区や港区といった現在の23区のトップクラスの区でさえも、住民が減っていました。
「都市のドーナツ化現象」と呼ばれた時期にあたります。
高度成長期と呼ばれた1954年(昭和29年)から1973年(昭和48年)は、急激に都市化が進んだ時期でした。
エネルギーが石炭から石油に変わり、東京湾岸沿いに次々と工場が建設されて産業が発展しました。
都市での工業化が進み人々の所得が増えた結果、お金を持った人たちはより良い生活を求めて、
広い住宅に住みたいと思うようになり郊外に一戸建てを購入して住み始める様になりました。
この時期、都内の中心部の大企業のオフィスや工場が集まった地域では人が住みよい環境を求めてどんどん流出していったのです。
中央区では昭和32年より人口が減少に転じました。
その後バブル期に突入して中央区の土地価格が上昇したため、人口はさらに減少し、平成12年1月1日現在、69,695人まで落ち込みました。
バブル期が終わると都心の不動産が大量に放出されたことで、
比較的安値の住宅が大量に供給されるようになり都心居住者が増加するようになりました。
都心回帰現象はこうして始まりました。
1981年に定住人口10万人を掲げた中央区は、さらに1988年「定住人口回復元年」を宣言し、
中高層住宅建設への助成金や住宅購入資金の融資斡旋、区立住宅の拡充政策などを次々と政策を投入します。
長年人口減少し続けた中央区は、これらの対策が実を結んで平成10年から人口が上昇し始めました。
隅田川周辺リバーフロントエリアの住宅開発によって、30~44歳の子育て世代の割合は33.9%を超えました。
23区平均の26.0%を大幅に上回っています。
2005~2010年の6歳未満の幼児人口増加率は56.0%と驚異的な数字で23区平均5.7%に大差をつけました。
2020年東京オリンピック開催を控えて、中央区は日本全国から注目を浴びる区域になります。
人口が順調に増えている反面、生活関連施設の整備が遅れています。
以前より指摘されていた日常の買い物ができる店は未だに不足しています。
大規模なスーパーがなく、食品スーパーも多くはありません。
ミニスーパーがその数を増やし、買い物問題は少しずつ解消されています。
そして緑被率が23区内で一番低いことからもわかるように、緑がある公園の数がとても少なくなっています。
浜離宮公園を除いた公園面積比率は23区内で20位となってしまいます。
これは幼い子どもを持つファミリー世帯にとっては、子どもを気楽に外遊びさせる場所がないことを意味しており、かなり深刻な問題です。
現在中央区内には、オリンピック選手村跡地や築地市場跡といった再開発候補地がいくつかあります。
これらの広大な敷地をこれからも住宅一辺倒にするのか、緑あふれる広場が加わるのかどうかが議論の余地があります。
東京都が作成した東京都の人口によれば、昭和35年以降より千代田区では人口が減少しています。
昭和35年は千代田区には119,045人の人が住んでいましたが、その後平成8年の34,595人まで減少し続けた後、都心回帰の影響を受けて再び上昇を始めました。
平成28年1月1日現在、千代田区の人口は55,131人となっています。
東京23区の中でも主要な役割を担う千代田区を一言で表すと、昼間と夜間の人口差が最も大きい区です。
人口が多いのは昼間で、夜間との差は20倍にもなります。
日本一賑わうオフィス街には住宅がほとんどなく、夜になれば人がほとんどいなくなります。
千代田区の人口は23区内で最下位です。 住民がとても少ない区です。
夜の人口が少なく昼間の人口が多いということは、この区は昼間に大勢の人が「働きにくる場所」であることを意味しています。
千代田区は産業別に分けやすい区で、丸の内、大手町には大企業が集中したビジネス街、日比谷や有楽町は銀座の商業地域に近いことから商業・娯楽施設が集まっています。
秋葉原は電器店の集積地、神田神保町周辺は大学、各種学校が多いことから出版業、印刷業、新刊書店・古書店が数多くあります。
そして千代田区の皇居周辺には国会議事堂、最高裁判所といった国の中枢機関が集まっています。
国内最大の規模を持つ東京駅には全国から人が電車に乗って集まり、都内での仕事が終わればまた電車に乗って全国へ戻っていきます。
日本全体を動かすような政治機関や交通機関の要所があるのは千代田区です。
住民基本台帳によれば、2010年1月現在、千代田区には26,000世帯が住んでいますが、地域別で見ると、丸の内が1世帯、霞ヶ関が5世帯、千代田区70世帯となっています。
以上の地域はオフィス街や皇居の所在地で住居エリアがとても少ない場所です。
住民がいるエリアは、最も世帯数が多いのが外神田の1,800世帯で、以下、富士見、神田神保町、一番町と続き、上位9位以内に千代田区の世帯数の半数が入っています。
世帯数が多いエリアではどのような人口の推移が見られるのでしょうか。
現在の千代田区は、戦後間もなくアメリカ主導で再編され誕生しました。
当時の旧麹町地区と旧神田区が合体して出来たのが現在の千代田区です。
旧麹町地区エリアは現在の丸の内や大手町、永田町、霞ヶ関ですが、これらの地域は江戸時代に大名屋敷があった場所です。
そして旧神田地区は、庶民の町として商売が盛んに行われていました。
神田地区では、商業が小売業と卸売業の2業種に分かれてそれぞれ発展してきました。
神保町の商店街、御茶ノ水の楽器街、秋葉原の電気街は小売業が集まった地域、神田の岩本町には衣料品の卸売業者が集まっています。
他には金物、医薬品といった特定業種の卸売を行っているエリアもあります。
千代田区の卸売業は中央区と並ぶ問屋の集積地と言われており、現在この2区内には23区内の卸売事業所の2割以上があります。
千代田区には、元々お屋敷エリアだった場所と昔から商売の盛んだった2つの地域があり、それらが一緒になって1つの区になったという経緯があるのです。
千代田区の人口推移は、北側の日本橋エリア、南側の京橋エリア、隅田川対岸の佃・月島エリアの3つに分けてみれば、どの地域で人口が伸びているかが分かりやすくなります。
2000~2010年の人口増加率は、日本橋エリアで105%、京橋エリアが70%、佃・月島エリアが51%でした。 日本橋エリアの中には、神田も含まれています。
旧商業地域だった日本橋エリアが現在も人口増加のポイントになる区です。
日本橋は卸売業者が多かったエリアですが、時代と共に業者はそこに一緒に住み込んでいた従業員と共にエリア外へと移動していきました。
その跡地にマンションなどの大規模住宅が建設されたことが日本橋エリアの人口増加率上昇につながりました。
今後もこのエリアの人口が増加すれば、千代田区の活性化につながるものと期待されています。
昼間区民の活力を利用し区の行政改革を行って生み出した財源を活用して、千代田区では独自性を持った施策を実行してきました。
幼保一元化園の創設や区立の中高一貫高創設は、全て千代田区から始まりました。
また高校生医療費助成制度の実施を大都市圏で最初に始めています。
将来においても、引き続き少子高齢化に対応すべく地域コミュニティの結束を深め、区内それぞれの地域にある魅力や特性、
皇居を始めとした観光資源を存分に利用して住みよい街づくりを目指しています。